著者
金子拓 (かねこ ひらく)
1967年山形県生まれ。95年、東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了。
博士(文学)。専門は日本中世史。現在、東京大学史料編纂所准教授。著書に『織田信長という歴史――「信長記」の彼方へ』(勉誠出版)、『織田信長<天下人>の実像』(講談社現代新書)、『織田信長権力論』(吉川弘文館)、『織田信長――不器用すぎた天下人』(河出書房新社)、『鳥居強右衛門――語り継がれる武士の魂』(平凡社)、編著に『長篠合戦の史科学――いくさの記憶』(勉誠出版)などがある。
本書の要点
- 要点1:織田信長と足利義昭(あしかが よしあき)の両属関係にあった明智光秀は、比叡山延暦寺の焼き討ちを機に義昭と決別し、信長家臣として重要な役割を果たしていく。
- 要点2:残存する書状から浮かび上がるのは、死・負傷、病気といった現象に人一倍敏感という、光秀の人間像である。
- 要点3:光秀は丹波(たんば)を攻略したあと、本能寺の変で信長を殺害する。その理由として、著者は怨恨説に注目している。
本書の要約
微妙な二重政権の時期を象徴する明智光秀
義昭と信長に仕えた光秀
明智光秀の前半生には謎が多く、出自や信長に仕えるまでの経歴がわかるような良質な史料はほとんど残っていない。
だが良質な史料が残る信長家臣としての光秀の足取りをたどることで、「本能寺の変」の謎に迫ることは可能だ。
永禄11年10月、足利義昭が織田信長の助力によって上洛し、征夷大将軍に任ぜられたとき、光秀は義昭の家臣でもあり、信長の家臣でもあったようだ。
史料によると、光秀は織田信長に召し抱えられた一方で、義昭からも所領を与えられている。
戦国時代に二人の主君から所領を与えられるのは、特殊なケースといってよいだろう。
「微妙な人間関係」のうえにあった光秀は、信長配下の奉行として命令執行に関与しつつ、当時朝廷と関係の深かった僧侶・朝山日乗(あさやま にちじょう)とともに公家に関わる事案処理にもあたった。
この時期に光秀と日乗を宛名として、信長・義昭の印判が据えられた「五ヶ条の条書」は、義昭と信長というふたりの権力者が政治をおこなうなかで生じる齟齬を是正するため、信長が作成し義昭が承認したとされる。
条書が光秀と日乗を宛名としていることから、義昭の監視、あるいは義昭の活動を支える役目を光秀たちが担った可能性がある。
両属関係の解消
義昭と信長の双方に仕えていた光秀は、義昭から所領を与えられていただけでなく、信長からの信頼も厚かった。
そのことを示す史料も残されている。
実際に光秀は、軍事的にも信長直属の部下として動いていた。
浅井長政(あさい ながまさ)と信長が決別することになった「越前・若狭攻め」や、朝倉・浅井と戦い勝利を収めた「姉川の戦い」では、信長の武将として活動した。
また光秀は姉川の戦いのあと、近江の湖東から湖南を守る六将に抜擢されている。
光秀はその待遇に値するだけの功をあげたと考えられる。
その後、朝倉・浅井に肩入れする比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の焼き討ちを断行した信長は、朝倉・浅井を後ろ盾とする義昭との対決姿勢を鮮明にすることになる。
光秀も義昭に味方する勢力から攻撃を受けた。
このときから、光秀の両属状態が解消されたことになる。
信長と義昭というふたりの権力者は、不安定な政治をもたらした。
光秀はそうした微妙な二重政権の時期を体現する存在であったといえるだろう。
武田氏や本願寺との対決
朝倉・浅井との争いを通じて、光秀には宇佐山城と坂本城が与えられた。
それでも光秀は、朝廷や公家への関わりから、京都の行政や治安維持をつかさどる仕事に関わっていたようである。
この頃の信長は、武田氏や本願寺と激しく対決した。
「三方原(みかたがはら)の戦い」で武田軍に敗れた信長は、今度は伊勢長嶋の一向一揆を攻めるために転戦する。
このとき光秀は信長とは別行動をとっており、河内(かわち)へ転戦する軍勢のなかにあった。
光秀は河内攻略に向かう織田軍において、主要な立場にあったようだ。
本の要約サイトフライヤーから引用